僕がプログラマーになるまで

僕は4人兄弟の長子です。
子供のころからの夢は医者でした。
人の命を救いたいとか、そういった高尚な理由はありません。
ただ単純に金持ちになりたかったのです。

僕の昔話になりますが、
医者になりたかった僕がプログラマーになった経緯について書いてみようと思います。

今回の記事は小学校時代まで遡り自分史を書いてみる暴挙です。
長いので人生を浪費したい方以外はブラウザをそっと閉じて下さい。

序章 – 金持ちになりたかった理由

父はサラリーマンで、新卒で入社して以来ずっと同じ会社で働いています。
いわゆる大手企業ですが、出世街道を諦めたと本人は言っています。
転勤の多い出世街道は子供が多いと難しいらしいです。
本人談なので、どこまで真実かはわかりませんが。

現在、早期退職で一旦退職金を受け取り第二のサラリーマン人生を送っています。
バブル期に一度だけあった年収1000万円超えが自慢。
また、仕事の愚痴をほとんど聞いたことがありません。
毎日辞めたいと言っている僕とは大違いです。

唯一の愚痴は不況のあおりで、体のいいリストラをされたことですかね。
いわゆる早期退職。退職金の大幅値下げです。
40年働いてそれだけしか言わなかった父は本当に素晴らしいと思います。

母は3人兄弟末っ子で幼い頃に父、母、祖父母を亡くしており兄弟と伯母さんに育てられてきました。
自称「貧乏人のお嬢様」で身内のほとんどを亡くす不幸な境遇にもありながら、あまり不自由なく育ってきたようです。
周りの人に恵まれたのでしょう。
そういった背景からかはわかりませんが、「貧乏でも食いっぱぐれることはない」という絶対的な自信と「金持ちへの憧れ(もしくは貧乏へのコンプレックス)」は非常に強いです。

大きな庭付きの家に住み、広い庭でたくさんの自分の子供が駆け回る様子を見守る生活がしたかったそうです。
また、一度で良いから洋服屋で「ここからここまで全部」というような買い方をしたいと言っていました。

金持ちの憧れの裏返しですが、母はいつも
「ウチは子供が多いから貧乏だ」
と言うのです。

「ウチは子供が多いから」
「ウチは貧乏だから」

僕は、母のこの言葉が嫌いです。
貧乏なのは子供の所為だと、言われているようでした。

父が稼ぐ給料明細を見て母は、
「稼ぎが少ない」
「新人みたいな給料」
「こんな給料ではウチのような大家族やっていけない」
と、いつも嘆いていました。

僕は将来「ウチは子供が多いから金持ちなんだよ」と言ってやろうと
子供ながらに考え、それには医者が近道だと感じていました。
目標は金持ちになることで、医者は手段と位置付けました。

ただ、人生思い通りにはいかず、
僕には子供もいませんし金持ちでもありません。
しかし大人になった僕は以下の点に気づきます。

「子供が多い」は「金持ち」の説明になっていない。

いわゆるセマンティックエラー【semantic error】ですね。
文法としては合っていますが、意味不明です。
“I am a pen”みたいなもんです。
プログラムだと誤作動を起こします。

実は、金持ちは子供の有無に関係なく金持ちなのです。
貧乏人の子だくさんと言いますが、それも違います。
貧乏人でも子供がいない家庭など、ごまんとあります。

大人の僕は一部修正。
ウチは子供の有無に関係なく金持ちなんだよ
を目標にしています。

ちなみに主婦が僕の下にプロジェクトメンバーとしてやってくると、同じようなことを言います。
「ウチは子供がいるからこの期間では無理だ」
「ウチは子供がいるから自分の時間がとれないし勉強できない」
「ウチは子供がいるから××ができない」
我が子を言い訳にする卑劣な行為、僕は断じて許しません。
中々メンバーを捨てられない僕ですが、このタイプだけはチームからも会社からも追い出します。

少し憎しみが入ってしまいましたが、
金持ちになるという点だけは幼少期から変わっていません。
では、前置きはこの辺にして小学校時代からいきます。

小学校時代

僕は割と器用な人間で何をやってもそこそこ上手くできました。

得意科目は全部です!

湘南美容外科も真っ青の自信。
思い出すだけで恥ずかしい自惚れた小学生でした。

散髪は、下手なのに散髪するのが好きな父親に切ってもらい大体前髪が揃ってました。
毎回「今流行っている髪型にしてやる」と勇んで切ってくれるのですが、いつも同じ髪型。
言い訳は「お前の頭は渦が二つあるから切るのが難しい」です。

習い事は、空手・水泳・書道・学習塾。
更に友達との遊びもこなすスーパー小学生。
月~日まで全て休みの今の僕を見たら、小学生の僕は死んじゃうかもしれません。

友達は幼稚園の頃から一緒の「かっちゃん」「よっちゃん」です。
一緒に空手や学習塾に通い彼らは僕のライバルでした。

かっちゃんが先に空手で昇級したら、悔しくて僕やよっちゃんは必死に追いつきます。
練習ではかっちゃんに勝てないのですが、試合では僕が勝ちます。
よっちゃんは体格が大きくならず昇級のペースも落ち、途中で空手を辞めてしまいました。
相変わらずかっちゃんと僕はライバルのままでした。

ある日かっちゃんのお父さんが交通事故に遭い、車いすが手放せない生活となりました。
その後かっちゃんのお母さんは家を出ていき、かっちゃんはお父さんと生活をしていました。

ある空手の大会当日、保護者の一人がかっちゃんに耳打ちをし、
かっちゃんは「うそっ!」と言った後、会場を飛び出していきました。
その日、僕は優勝。かっちゃんが棄権しなければ決勝で当たるトーナメントでした。

優勝メダルを持って家に帰った時、「おかえり」はなく母が慌てています。

母「かっちゃんのおっちゃんが亡くならはった」

かっちゃんのおじさんと親交のあった僕の父母です。
その日はお通夜に向かいました。
それ以来、かっちゃんは空手にも学習塾にも学校にも来ていません。

卒業式。
久しぶりに会ったかっちゃんは髪の色が変わり、小学生ながらに彼女もいました。
変わってしまったかっちゃんに
また一緒に空手やろうよ
と言ったのですが、かっちゃんは苦笑いするだけ。
中学校も離れ離れになりそれ以降一度も会っていません。

中学校時代(1校目:京都)

京都の公立中学校に入ったのですが、いわゆる吹き溜まりの中学校。
僕は空手を続けていたお陰で、同じ道場の先輩たちが上級生にいます。

一度学校の番長と呼ばれていた人が彼女連れで闊歩しているところをすれ違い、
誤ってスリッパを踏んづけてつまづかせてしまったことがあります。
丁度そのタイミングで3人の道場の先輩が通りかかってくれたので
事なきを得たわけですが、一歩間違えればケガするとこでした。
こわいこわい。

その頃僕はまだ空手を続けていました。
かっちゃんがいない大会は連戦連勝でした。
僕のやる気はとっくに萎えていましたが
周りの期待もあるので順番にタイトルを消化していきました。

それなりに順調に中学生活を送り、
学業も偏差値でいうと60後半から70前半だったので、どこでも行けるだろうという感じです。
身長も伸び始めそれまで全くモテなかった僕は、そこそこモテるようになりました。
僕の下駄箱に切り刻まれた手紙が入れられていたのですが、ラブレターだったのだと思います。
こわくてつなぎ合わせてませんが。

そんな順調な中学生活を送っていたある日、僕に4人目の弟が誕生しました。
僕の周りは思春期真っ盛りの中学生。
「お前のお父ちゃんお母ちゃん頑張ったな」と百万回は言われました。

そんな中学校生活ですが、ある日父が住宅を買うというので僕は転校することになります。
購入した家は駅からバスで30分の超不便な場所。しかもテラスハウス。
時期もバブル崩壊直後で高金利の時代。

たぶん40歳を超え、父は焦ったのでしょう。
また、弟が生まれたことで、母が「ウチは子供が多いから」と「ウチは貧乏だから」と頻繁に言うようになりました。

もうこれ以上金利が下がることはない

父はそう言いましたが事実はこれです。僕が中学二年の頃なので1995年あたりですかね。

「図解住宅ローン」引用

後からの批判なんて誰でもできるので、これについて何かを言うつもりはありません。
ただ、未来を読むことは容易ではないということです。

父一世一代の大勝負です。
定年後75歳まで払う予定で、ボーナス払い100万円。

父「定年後この借金どうやって返すんやろ。ま、何とかなるわ。やけくそや。」

と笑っていたのですが現実はなんともなりません。
銀行からは予定されていた通りに請求が来ます。
早期退職で大幅に退職金が削減され借金は支払いきれず、
父は先物取引に手を出しますが、それはまた後日。

また、僕の父親の弟である叔父は、
若いころに家を買って借金もほぼ返し終わろうというタイミング。
父と同じ企業に勤めていながら正直金持ちに見えました。
この時僕は、強く思ったのです。

家は若い内に買うべき

中学校時代(2校目:大阪)

大阪の中学校に転校しました。
方向音痴の僕は、学校に辿り着けず初日に遅刻。
今日の学校はもう終わりかなぁという時刻に到着。
急いで手続きを済ませ、帰りのホームルームで学友達に紹介されました。
どうも僕はすごいヤンキーの学校から転校してくると噂されていたようで、
唯一金髪だったクラスメートに絡まれました。

前の学校は、道の真ん中ではシンナー吸ってる奇人達がウヨウヨいて、学校の窓ガラスはほぼ全部ヒビか割れ。
毎日のように非常ベルが鳴り、ボヤや火事は日常茶飯事。
また、教室の大半はサボりと不登校で人がいません。
不登校だけでもカウントしたら年中学級閉鎖です。
頭髪だけ見てもコスプレ会場真っ青のカラフルっぷり。
それが普通だったので、今更金髪の一つや二つ何も感じません。

金髪「お前、前の学校で結構いわせてたらしいな。」
僕「ん?俺、お前のような奴嫌いなんよね。関わらんでくれる?」

金髪が僕の反応に震えているので
あぁ、ごめん。君にそっくりな奴が前の学校にいて・・・。
とフォローしたのですが、かなり落ち込んでしまいました。

実際そっくりな奴(以下、ウンコマン)がいたのは事実です。
僕は前の中学校の帰り道、腹痛に堪え切れず一度だけウンコを漏らしました。
ウンコマンはその全てを知るこの世でたった一人の人間です。

思春期真っ盛り。
「このような恥をさらして生きるくらいなら・・・」
と、僕が侍なら腹を切ったことでしょう。

しかし切腹が名誉ではない昨今、
取れる手段としては事実を知るこいつを葬るしかありません。
けど、法治国家である以上それは無理。
切腹と殺意の間で、僕の本能は彼を敵と認識し、自然と距離をとるようになりました。
彼はその後一切その話題には触れなかったのですが、その気遣いもぶっちゃけ嫌いです。

話しを戻しますが、不良グループに入って友達大量ゲットと考えていた僕は、
ウンコマンのそっくりさんとの出会いで断念しました。
こいつとは友達になれない。

次に目を付けたのは、生徒会選挙。
「友達大量ゲットのチャンス!!」と、僕は生徒会長に立候補。

謎のベールに包まれた転校生が、転校2週間程で生徒会長に立候補ですから圧勝ですね。
「前の学校の良いところをミックスして・・・」みたいな演説をしたのですが、
前の学校の良いところなんて「無秩序な自由とガラスの修理費用半額」くらいです。

悪化の道しか見えません。
結局僕が生徒会長として働いたのは、行事ごとの挨拶くらい。
他は、優秀な執行委員長がやってくれます。
楽ですね。しかもモテる。

これが帝王学か。

僕はそう実感しました。

突然の転校で少し学力は下がりました。
前の中学校では判定も公立高校の数も少なく府内トップの高校に入るつもりでした。
大阪ではどの学校が良いのかよくわからない。
しかしその状況下で進路の選択を迫られます。

上位三校と呼ばれている学校の上から
1番目の高校:たぶん受かる
2番目の高校:何もなければ受かる
3番目の高校:確実に受かる
みたいな状態だったので、良く分からない僕は3番目の高校を選ぶことにしました。
大阪では、公立高校が1校しか受けられず、落ちたら自動的に私立の高校に通うことになります。
子供が多いから貧乏と言われ続けた僕は、挑戦する気にもなりません。
確実に受かる高校を選択しました。

ま、どうせ確実に受かるとこ受けるし・・・

学力が下がっていても特別に自分で努力することはなく全て学習塾任せ。
僕には自分で勉強する意志は持ち合わせていなかったのです。

晴れて3番目の高校に入学しました。

高校時代

中学時代の惰性が少し残っており、1年目は何とか学力を維持できました。
しかし2年目以降、地に落ちました。正直何を言っているのかわからない。
良く「中学までは神童。高校では普通の人。」と言いますが僕もその一人です。

中学までは漠然と
「東京大学より大阪大学の医学部の方が良いらしい。じゃあそっちにしよう。」
と、ふざけた考えを持っていました。

しかし高校2年の時点では関関同立ならギリ入れるかもという状況です。
思うように振るわない成績にイライラし、自分で勉強しようと教科書を開いても良く分からない。
周りに聞ける人もいない。

それまで数学が一番得意だったので学校の問題は解けたのですが、
センター試験模試や赤本になると全然毛色が違って途方に暮れる始末。
最後の砦の予備校や学習塾は中学校時代とは異なり高額で通えない。
漠然と感じる金持ちになれないかも・・・という不安。

母は常に
「ウチは子供が多いから、私立の大学なんか行かせられませんからね。」
「ウチは子供が多いから、一人暮らしなんかさせられませんからね。」
「ウチは子供が多いから、浪人なんかさせられませんからね。」
と言っています。

ここで遅めの反抗期。
勉強なんかやってられるかっ!!
僕は、全てを投げ出しました。

僕は転校して以来、通っていなかった空手に通い始めました。
少し道を見失い勝利を実感したくなったのです。
滋賀県・京都府・関西大会と優勝し全国大会に出ることになります。
しかしあっさり全国で東京代表に負け、
気分転換に出場した市の大会で国体優勝選手に一本も取れずに負け。
やさぐれて浪人時代へ突入。

浪人時代

浪人時代。
今の感覚に似ています。
行き先が決まらないまま一年間の執行猶予。
先月までの僕は行き先も決まらないまま、ニートで二か月間の執行猶予。

浪人時代は近所の生意気な小学生に「お前何年生?」と聞かれて落ち込みました。
今は近所の整体師に「今日はお休みですか?」と聞かれて落ち込みます。
18歳の僕も36歳の僕も全く同じです。成長していません。

僕の通っていた予備校は京都四条にあります。
しかし、想像以上に予備校と言うやつは努力しない人間に冷たい。
また、予備校は都会に鎮座し、通学途中と下校途中には誘惑しかありません。
僕は毎日「明日から頑張ろう」と息抜きに精を出します。

「へただなあ、カイジくん。へたっぴさ。欲望の解放のさせ方がへた。カイジくんが本当に欲しいのは焼き鳥。これを下のレンジでチンしてホッカホッカにしてさ。冷えたビールで飲(や)りたいだろ?」

「フフ。だけどそれはあまりに値が張るから、こっちのしょぼい柿ピーでごまかそうって言うんだ。カイジくん、ダメなんだよ。そういうのが実にダメ。
せっかく冷えたビールでスカッとしようって時にその妥協は傷ましすぎる。そんなんでビールを飲んでもうまくないぞ。嘘じゃない。かえってストレスがたまる。食えなかった焼き鳥がチラついてさ。全然スッキリしない。心の毒は残ったままだ、自分へのご褒美の出し方としちゃ最低さ。
カイジくん。贅沢ってやつはさ、小出しはダメなんだ。やる時はきっちりやった方がいい。それでこそ次の節制の励みになるってもんさ。違うかい?」

「食べ終わったら、奴はとりあえず満足して、こう考えるだろう。明日からがんばろう。明日から節制だ、と。が、その考えがまるでダメ。「明日からがんばろう」という発想からは、どんな芽も吹きはしない。そのことに20歳を越えてまだわからんのか。明日からがんばるんじゃない。今日、今日だけがんばるんだっ。今日をがんばった者、今日もがんばり始めた者にのみ明日が来るんだよ」

カイジより抜粋

ちなみに予備校はどれだけの学生を上位の大学に進学させるかより、生徒のアンケートによる人気投票で講師の評価が決まります。
中学時代までの学習塾の仕組みとは全く異なるものでした。
一人ひとりを見てくれるわけではなく、小気味の良いのフレーズや面白例え話を並べ、できるような気分にさせてくれます。
実は「学問に王道なし」とは全くその通りで、どんな裏技を教えてもらっても確率(4択なら25%)以上の結果は出ません。
また、できる気になって家で復習しても、授業で端折られている部分が自分の頭では補いきれず答えに辿り着けない。
浪人して半年もしたら気づきます。

自分は、医者にはなれないんだ。

国立志望といっても辺境の大学しか合格判定が出ません。
一年間浪人しましたが学力は上がるどころか下がり続けます。

僕の現実逃避の先はパソコンでした。
我が家は父が会社から廃品をもらってくるので、代々PC9801からWindows95,98,2000とパソコンには不自由しませんでした。
今では考えられませんがセキュリティにうるさくない時代だったのでしょう。
時代はISDN。インターネットが徐々に時間限定で定額になりつつありました。
浪人時代、僕が勉強もせず何をやっていたかというと「チャット」
学力に反比例しタイピングの速度は上がって行きます。

余談ですが僕の¥552(税込)という名前は、この時のチャットのハンドルネームです。
近くにあった参考書の値段です。如何に薄っぺらい参考書を使用していたのかがうかがえます。
みんな「税込み」と呼んでくれていました。

話しを元に戻します。
諦めの良さには定評がある僕です。
捨てたら早い。

もう医者は良いかな。どうせ無理だし。

チャットに没頭しながら考えることは、
これからの時代はパソコンかな
です。

ヤフー株が暴騰し、僕の思いつきは確信に変わります。
これからの時代はパソコンだね

入れそうな田舎の大学の情報工学部に、
センター試験の結果送ったら合格だったので行くことにしました。
こうして僕は超五流大学の情報工学科に通うことになるのです。

大学時代

母が駄目だと言った「浪人・私立・一人暮らし」コンプリートです。
僕は田舎の大学に通うため一人暮らしを始めました。
偏差値は40代前半。中学時代の僕が知ったら卒倒します。

軽いノリで情報工学を専攻したわけですが、
集まった同級生たちは想像を絶する変態達でした。

N〇SAやJ〇XAにハッキングしかけて警告されたり、
パソコンゲームをPC88シリーズの時代から全て持っていたり、
片っ端から暗号を解いたり、
暗号化アルゴリズムをいくつか提唱していたり、
モザイクをあっさり解除したり、
それまでに発見されたウィルスを全て保有していたり、
未公開の映画を保有していたり、
全てのゲームをどこからか入手したり、
挙げればキリがないですが、僕は入る学校を完全に間違えたと思いました。

しかも、そいつらは親が
・医者
・大手企業土木企業の社長
・大手和菓子屋チェーンの社長
など。

親が一流の為か勉強できなくても、好きな分野での能力はすごいですね。
今考えてもどうやっていたのか、わからないのがいくつかあります。
一部犯罪の匂いがしますので、これ以上の言及は控えさせて頂きます。
何とも凄い奴らです。

ちなみに僕もモザイク解除に挑戦してみましたが、
僕のプログラミング技術ではどうにもなりませんでした。
自分の力で駄目なら文明の利器です。
当時モザイク外しと呼ばれる怪しげな機械を先輩から1000円で借りました。

しかし結果は燦燦たるもの。
モザイク個所かどうかに関係なく画面全体がボヤけます。
肝心の個所は、元のモザイクにボカシをかぶせたような何とも言えない結末。
僕はこの機械を返却する時、先輩に1000円多く払いました。
先輩は何も言わず受け取ってくれました。
この機械、定価は30万です。

何だかんだで大学生活を謳歌。
部活・バイト・チャット・ゲーム・学校・ゲームセンター・ナンパ・合コン・・・。
楽しい事目白押しです。
先ほど挙げた変態達とは距離を取りました。
別に嫌いではなかったのですが、モテそうになかったので。

ついでに優先順位の低い部活はやめました。
弱いくせに全国目指すとか、そういうのいらない。

空いた時間でホームページを作成し、多くの美女たちと出会いました。
時はテキストサイト全盛期。「ち〇こ」と「ゲイ」と「貧乏学生」の話でもしていれば寄ってきます。
女子はこういうの好きですね。

掲示板(BBS)用意してそこに書き込んでもらって、
MSNメッセンジャーのアドレス用意して、
しつこいやつやら、自分に自信のないやつ、やたら死にたがるやつは削除して、
話しの雰囲気から「ん?こいつ自分に自信あるな」というタイプには、ちょっとしたリップサービス。

何か相談事とか持ちかけられたら「僕は君のこと結構好きなんだけどな。」
会話が盛り上がらなかったとしても「今日は楽しかったよ。ありがとう。」

適当なこと言っておけば勝手に好意を持ってくれます。
で、しつこくなってきたら削除。
僕はそういうクズです。

そんな古き良き時代も今は昔。
今こうしてワードプレス使って記事を書いてますが、
何だかそういう距離感ではないのですね。
今の方が人間関係が希薄で好きです。

そろそろ大学生活も終盤。就職活動です。
就職氷河期は脱したと言われていましたが、
それでもやはり就職が難しい時代です。

リクナビに登録して何も考えずに一括エントリー。
説明に来てくれた会社の中で説明員がかわいかったところに順番に申し込み。
その中の一つが、先日退職願を出した会社です。

別にプログラマーになりたかったわけではありません。
面接で「SEでも営業でもなんでもいいっすよ。」って言ったら「SEも営業も募集してないんだよね。」との回答。
「こりゃ落ちたな」と考えていたのですが、どういうわけか採用。入ることにしました。

冒頭で述べた「金持ちになりたい」はどこへ行ったのか。
そりゃあ、今も目指してますよ。
たぶん近づいてます。

おわり

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