DXの設計書⑨ – 関係者には個別に聞け

誰か助けてください!!
困っている人が叫んでいます。

人通りの多い道であなたは助けますか?
あなたしかいない道ではどうですか?

自分では判断できないものに出くわしたとき、
答えられる人に可能なら1対1で聞きましょう。


会議の中で「誰か教えてほしいのですが、XXXの状況ではAとBどちらを選択するべきでしょうか?」のような質問をした場合、誰も答えてくれません。
「決める」には責任が伴います。
例え100%に近い答えを持っていたとしても答える人は少ないのではないでしょうか?

一瞬の沈黙を割って、評論家たちが意気揚々と質問をすり替えます。

XXXの状況ということだけど、それだけとは限らないんじゃないか?
そもそもXXXのような状況は私の理解からいうと・・・。

「そもそも」論から有益な情報が出ることは稀です(個人的な偏見)。
また、別の評論家A、B、Cが気持ちよく乗っかります(個人的な偏見)。
A,B,Cは自分の存在感を示すためだけに発言します(個人的な偏見)。

自分の経験談を話し始めたり
歴史を語り始めたり
言葉の定義の理解を説明したり

結局、最初の2択の答えは得られず。

もう少し状況を整理してまた質問させて頂きます

2択の答えが欲しいだけなんですけどね。
宿題が増えます。


ふと、竹林の七賢人を思い出します。
2000年近く前からヒトは変わっていません。
きっと答えの出ない議論が好きなのでしょう。

3世紀の中頃、魏から晋への交代という政治的変動期に、そのような政治的陰謀を避け、現実から逃避して、自由に物事を論じることを好む知識人が現れた。
彼らは、琴を弾じ、酒を酌みながら自由に議論し、正しい「道」を求めたのであろう。
そのような議論を「清談」といい、「竹林の七賢」が有名。

世界史の窓 – 清談

少し趣きは異なりますが、1814年~1815年のウィーン会議も有名ですね。
会議は踊る、されど進まず

ヒトの本質は変わらないようです。
少し脱線しますが、高々数十年の人生で「会議の在り方」を変えようとしない方が良いですよ。


今、自分が持っている答えとしては、
答えを持ってそうな人に1対1で聞く
ですね。

忙しそうでも「お時間、5分だけよろしいですか?」と言えば対応してくれます。
ダメならX時頃に出直してきます。といえばよいだけです。
その人が答えを持ってなかったとしても持ってそうな人を教えてもらいます。
たらいまわしにされたとしても、まだそっちの方が答えが出ます。

みなさん直接助けてくださいというと、
優しく教えてくれますし決断も早く勇敢です。

DXの設計書 – 関係者には個別に聞け
もう、設計書関係ないですね。

おわり

PR

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です